私の農業人生

私の農業人生

すみません、長いです。もう本を読むつもりでお願いいたします(^_^;)

2011年3月11日の東日本大震災。

その後私は仕事を退職し、無慈悲な風評被害に耐えながら、父の手伝いをし始めました。

父の農業の手伝いばかりではなく、自分も農家として少しずつ独り立ちしなければならないと考えました。

最初は何を作ったらいいのかも分からず、祖父が作っていた身知らず柿を作ることにしました。父も昔は祖父の柿作りを手伝っていたそうです。

当時、既に祖父が亡くなって10年以上経っていた柿の木は樹齢60年を超える老木で、生い茂った畑の草刈りから始まり、伸びきっていた枝も初めての剪定を行い、実りの秋にハシゴを使って収穫、焼酎による昔ながらの渋抜きをして、さあ売り先をどうするか。

こんな名も無き生産者の柿を誰が買ってくれるのか。

もう、とにかく足を使うしかないと思いました。

お隣の猪苗代町の知らない集落の家々へ何件も飛び込みで売り歩きました。心臓はバクバク。玄関のチャイムを押す指は震えっぱなしでした。

結果は大成功。その日持っていった身知らず柿を全て売ることができました。お客さんの顔を見て、しっかりと説明して、納得して買ってもらう。自分にとっての原点となる経験で、まさに下積み時代でした。

そして2013年、父の除雪仲間にトマト栽培のスペシャリストがいると聞き、師匠になってもらえるよう頼み込みました。

60mハウス3棟を建設し、そこで大玉トマト栽培を始めました。最初の2年は師匠に徹底的にトマト栽培の基礎を叩き込んでもらい、なんとかそれなりのトマトを作れるようになりました。当時は特別な売り先も無いため、農協のトマト部会に入り、農協に出荷することにしました。農協は本当に素晴らしい仕組みで、必ずトマトを全量買い取ってくれます。主に農協→市場→卸→販売店という流れでトマトが流通するため、トマトのお尻がちょこんと赤くなった状態。つまり、ほぼほぼ真っ青な状態で収穫し、店頭に並ぶ頃には熟してほどよく赤くなっていくというわけです。本当はトマトの樹で赤くなったものを収穫した方がいいのですが、流通のタイムラグを考えれば仕方の無いことでした。

日々トマトと向き合い、試行錯誤の連続でした。しかし、ふとした瞬間に何か物足りなさを感じていました。

何が物足りないんだろう?トマト作りも上達してきたし、品質もかなり良くなってきたのに。

父の背中を見て農業をしてきました。私がモノ作りが好きなのも父の影響でした。

「あっ!母の影響だ!」その時、物足りなさの正体に気付きました。母は私が子供の頃、贈答品販売のお店で働いていて、それを見学したことがあり、素早くそしてオシャレに梱包した贈答品を販売し、お客さんが笑顔になる。それがとてもキラキラして見えました。

これが足りなかったんだ。身知らず柿を売り歩いた時もそうでした。喜んでくれるお客さんの顔が見える、喜んでくれるお客さん声が聞ける。自分にとってはそれも大切だったんだ。

父の背中を見てモノづくりをし、

母の背中を見て販売をする。

でも自分が作っている何トンものトマトを全て個人販売で売るのはまず無理だと直感しました。そこで私は、個人販売や道の駅で売れるだけ売る、そしてそこで売りきれないと判断した分は農協に全て買い取ってもらう。

かっこよく言うなら「販路のポートフォリオを組んで、マルチチャネルで展開した」ということになるらしいのですが、横文字すぎてしゃらくさいので簡単に言うと、トマトを一切無駄にせず、「個人販売や道の駅での販売」と「農協への販売」に分けてリスクを分散したという感じです。

個人販売や道の駅販売を始めると、直接お客さんと触れ合う機会が増えて、すごくやりがいも感じたし、美味しいと言ってもらえたり、リピートで購入してもらえたりするのがたまらなく嬉しかったです。

それからは、いかに個人販売や道の駅販売の割合を増やしていくかを必死に考えました。

【おっと、書いていて眠くなってきました。続きはまた今度、、、、。♪

Cummingsoon

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